12月1日(金)
気づくといつの間にか師走に。
本を読む。
雑誌を読む。
音楽を聴く。
大切な人々を思う。
12月3日(日)
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取材当時89歳の菊池さんが「都営霞ヶ丘アパート」に引っ越してきたのは1989年のこと。アパートは建て替え前の競技場から目と鼻の先だった。2009年の「東京五輪招致活動」の際は、菊池さんは胸を躍らせ、「東京で五輪をもう一度」と、商店街にのぼり旗を立ててまわり、積極的に招致活動に加わったそうだ。そして、13年に今回の五輪開催が決まった時には心から喜んだという。ところが、当初は「コンパクト五輪」ということで改修で済むはずだった競技場が立て替えられることになり事態は急変する。故ザハ・ハディドが設計した8万人収容の新競技場は結果的に、菊池さんのアパートをのみ込む形だということが判明したのである。その後、莫大な建築費の問題がメディアで大きく取り沙汰され、最終的にザハ案は白紙撤回された。それでもアパート解体の方針は変わらず、住民たちは立ち退きを迫られることになった。反対の声を上げたのは、約130世帯のうち菊池さんを含むわずか5、6世帯。町内会が移転を引っ張る中で菊池さんたちは圧倒的な少数派だった。高齢の住民が多く、ほとんどの人たちは諦めることを迫られていたのだ。そして菊池さんたちの悲痛な叫びは無視された。別に何が何でも転居に反対だったわけでないと、転居先の都営アパートの一室で菊池さんは当時のことを振り返る。実は、菊池さんは勤め先の工場で事故で若いころに利き腕の右腕を失っている。左腕にも障害がある。荷物は高いところに上げられず、その代わりに色々な荷物を床に置くためのスペースが必要だった。霞ヶ丘アパートの間取りは2DKだったそうだ。「だから新居は同じ程度の環境にしてほしい」。それがせめてもの願いだった。ところが、独り身であることを理由に1DKの部屋に移るよう命じられた。さらに追いうちをかけたのが都からの補償金だ。その額はわずか17万1000円。引越し代にもならない。金が全てではないがオリンピックの開催には総額3兆円もかけているのに、こんな理不尽な話があるだろうか。このてんまつを記録し、2021年の夏に全国公開されたドキュメンタリー映画「東京オリンピック2017 都立霞ヶ丘アパート」(青山真也監督)には、16年の真冬、菊池さんが引越し代節約のためにリヤカーに必死で荷物を載せ、一人で新居まで引いていくシーンがある。その横を高校生とおぼしき野球部の集団が走りすぎてゆく。困った老人に手を貸すどころか邪魔だと言わんばかりに。冷酷さに胸が締め付けられた。それから5年。住民たちは主に三つの都営アパートへバラバラになり、霞ヶ丘アパートのコミュニティは解体された。高齢での引越しはストレスも大きく、新天地に慣れないまま亡くなった人も少なくないという。「もっと、高齢の住民に配慮した移転方法があったのではないか」と長期にわたり彼らを見続けてきた青山監督は憤る。では現在、霞ヶ丘アパートが建っていた場所や隣接していた明治公園はどうなったのか。青山監督の案内で跡地を歩いた。フェンスで囲まれていて入ることはできなかったが、そこには五輪報道用の特設テレビスタジオや建設会社の仮設事務所が建っていた。そしてそのすぐ隣には、新しく建った、高級分譲マンションのザ・コート神宮外苑、日本オリンピック委員会(IOC)の事務所などがある「ジャパン・スポーツ・オリンピック・スクエア」、日本青年館という3棟の高層ビルが私たちを見下ろすようにそびえていた。さらに今後も建設ラッシュが続く予定だ。国立競技場に建て替えに伴う再整備によって、この辺りの高さ制限は15メートルから80メートルまで大幅に緩和されたという。だがここでのポイントは、競技場にいくらなんでも80メートルの高さは必要ないということだ。つまり高層ビルのための緩和だったのではないか。しかも霞ヶ丘アパート跡地を区画道路にすることでマンションの建ぺい率と容積率を最大限に利用可能にしたと青山さんは指摘する。
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斎藤幸平著「ぼくはウーバーで捻挫し、山でシカと戦い、水俣で泣いた」
’五輪の陰 成長へひた走る暴力性’より抜粋。
全くもって言葉が出ない‥。
気力を無くしてしまう。
本を閉じ、老眼鏡を外してしばらく瞼をつぶる。
私は疲れてしまった。
疲れてしまった。
12月4日(月)
7時起床。
珈琲を淹れる。
BGMはYo-Yo Ma’バッハ Cello Suites Nos 1,5&6’
店長Gから誕生日プレゼントにもらった写真集を眺める。
目線の先には本棚があり、
これまた誕生日にスッタフSからもらったリヒトミューレが飾ってある。
幸せに包まれている。
12月5日(火)
買い出しの途中、小一時間空いたので、どこかで本を読むか事務作業をと思い、車を走らせていると大きく’M’の看板、マクドナルドへ入店した。
数億年ぶりにメニューを眺めたが、眺めたところでどこに何が表示されているか四苦八苦してしまう。
結局、ホットコーヒーのみを注文。
昼時もあって店内は混んでいた。
ハンバーガーとポテトの匂いが店内に充満しているが、全くもって食べたいと思わない自分がいる。四人座れるボックス席に座ってしまい、申し訳ない気持ちに。
ある時期、贔屓にしていたホテルがあって半年に一度訪れていたグアム島。
タモンベイにはバーガーキングがあって、訪れるたびに食べるのを楽しみにしていた。
あの時の自分はどこに行ってしまったのだろう。
12月14日(木)
パスポートの申請。いつもの5年間用パスポート。
10年パスポート、なんだか色そのものが馴染めなくて毎回5年用にしている。
あと、10年先ってなんだかイメージが湧かないんだよね。
旅の目標設定も5年先くらいまでがちょうど良い。
夕方、ディスクユニオンへ。
驚いた。
探していた、高柳昌行’もうひとつの自転するもの’見つける。
しかしながら、三万円以上の値がついている。
誰が値段を吊り上げるのか。
コレクターってのは総じてお金をいくらでも出して買い求めるのだろう。
私はそんな気にはなれないし興味がない。
ご縁がなかったと諦める。
500円と450円のレコードを2枚購入。
12月17日(日)
恋愛も死もどこからともなく唐突にやってくる。
準備ができないことが多い。
夕食は、蕎麦屋へ。
瓶麦酒と熱燗。
彼の死を思ったり、最近気になる人の事を想ったりする。
そんな逡巡する心を、板わさの横に鎮座する山葵で掻き消したい気分の日。
12月18日(月)
起き抜けにoasisのセカンドをターンテーブルに。
このバントの音楽病に犯されて約30年。
まだまだついてくよ。
夕方、年に一度の恒例行事。
取り寄せた蟹を食卓にて囲む日、黙々と淡々と。
キリッとした日本酒が五臓六腑に染み渡るのであった。
12月19日(火)
9時。ファミリーレストランで雑務をこなす。電卓を叩く。
夕方、自宅にて映画’ほつれる’鑑賞。
終盤の’木村くんに会いたい’ってセリフに参ってしまう。
自分が言われたら結構辛いなーなんて思った。
最終シーンの街並みが自分の知る土地(幕張新都心)で映画の世界から、
一気に現実に戻ってしまい、冷めてしまう。
12月20日(水)
キックバックって、なんとなくゆるいような言い回しだけど、結局裏金ですよね。
知らぬ存ぜぬなんて許されるものではない。各々の政治家の棒読み釈明に私は頭にきている。
社会を牛耳る権力者は、我々一般庶民に対して都合の悪いことは決して教えてくれない。もちろん、学校でも教えてくれない(エッジの効いた美術や音楽の先生とかがいれば教えれくれるかも)。幼少期からの刷り込まれた価値観を覆すには、自ら疑問を持ち、自ら学び、そして行動に移すしかない。
あとは信用できる人間を見つける事が大切だ。
自分の幸福度は人々との関係性が重要となってくる。
数字で表せるものなんて、たいていどうでもいい。
12月22日(金)
冬はどうしても出不精になる。
こんな時期こそ街へ出て、好きな酒場に顔を出し、
共鳴する人々と酒食をともにして自分の居場所を忘れないようにする。
人生を楽しむ。
老いることを恐れずに。
12月25日(月)
暮れが近づくと、ここ数年思い出すことがある。
2015年の暮れは、都内某所で雑務に追われていた。
その日、結局終電をなくした私は、一人、街を彷徨っていた。
佇まいの良さそうな居酒屋が視界に入る。
酒でも飲んで始発を待つか、、。
静かに暖簾をくぐると、コの字のカウンター。この店にBGMはなかった。
向かい側には先客が二名。
夫婦と思しき男女が酒を酌み交わしている。
一瞬にして私は見惚れてしまった。
女性は艶やかで、清く姿勢を正し、ゆっくりと熱燗(だと思う。徳利だったから)を飲っていた。
男性は少し酩酊気味だが、とても楽しそうで幸せな顔。
夫婦の酒の交わし具合を恍惚と眺めていた私に、唐突に夫が私に話かけてきたのである。
夫『君、音楽は好きかい?』
私『もちろんです』
夫『僕はここに(居酒屋)訪れる前に自宅でジミ・ヘンドリックスを聴いていたんだよ。君は普段どんな音楽聴いているの?』
私『色々拝聴しますが、今夜は終電を逃してしまってここ(居酒屋)に辿り着いたんです。今はフランク・ザッパを聴きたい気分ですね。』
夫『終電を逃した君。ザッパのどのアルバムが聴きたいかい?』
私『(少し考えて)ザッパのソロ二作目。『ホット・ラッツ』ですね。今夜は、もうどうにでもなれって感じです。』
私の答えを聞いたあと、夫の少しニヤけた顔が印象に残った。
隣の奥様は夫と私のカウンター越しの音楽談義にゆっくりを頷きつつも、
会話には入ってこない。私は終始平静を装う。
夫(隣の奥様に対して)『いい?一緒に』と。
奥『はい。喜んで(ニコッと笑顔で)。』(私はもう完全にノックアウト状態)
夫『君、こっちの席来て、よかったら三人で飲もうよ』
私『ありがとうございます。』
カウンター越しに佇む愛らしいご夫婦は、
沢田研二さんと田中裕子さんだった。
私はこの真冬の気絶しそうな出来事を、いまだに’夢だったのではないか’と思っているのだが、
日付の入った彼のサインやメモを所持しているということは’本当の出来事’だったという事だろう。
12月31日(日)
楽しさや美しさ健やかさよりも、なんだか悲しみが勝る一年だったような気がします。
私はささやかですが、毎日祈っています。
そして今後も祈り続ける事でしょう。
どうか、周りで困っている方がいたら助けて下さい。
困っている人は遠慮なく声をかけて下さい。
手を離さないで下さい。
一人一人の支え合いがあれば、その日は少しだけでも幸せになれると信じていいます。
今年も一年ありがとうございました。